メイドインジャパンのジーンズができるまで

いまや国民的人気のジーンズ。日本で生産が始まって実は半世紀しか経っていませんが、デニム地の加工技術は本場アメリカを凌ぐほどで、世界からもたいいへん注目されています。でも、この高い技術力を裏打ちするのは、意外にも「着物」の文化だって知っていましたか?

8893607_S_2

 

「着物」と聞くと、華やかな友禅などをイメージしがち。けれど着物が普段着だった江戸時代頃は、こうした絹の着物は一部の富裕層のためだけのものでした。
江戸時代中期以降、綿花の栽培が普及し、三河、尾張(愛知県)、泉州(大阪府)、備中(岡山県)、備後(瀬戸内地域)などでは、温暖な気候のもと、さかんに綿花の栽培が行われるようになり、富裕層以外の多くの庶民は綿花から紡いだ糸を綿布にし、綿の着物を着ていたのです。

中でも備後では、江戸時代後期になると綿織物に藍染を施した絣(かすり)という綿織物が生産されるようになり、庶民のみならず武士なども藍染の織物を身につけるほど、藍染の着物が普及していきました。こうして綿織物という地場産業は、岡山や広島の各地で受け継がれていき、大正元年には日本の全産業の5割が紡績業という大発展を遂げました。さらに、1890年代になるとインドや中国、アメリカなどから綿花を輸入。さらに盛んに綿織物が生産されるようになりました。

 

物不足の中で注目された古着のジーンズ

こうして大きく発展した各地の地場産業に大きな打撃を与えたのが、第二次世界大戦です。
戦時中の日本は国際的にも孤立していたため綿花の輸入がストップ。綿織物の生産が激減します。そんな戦後の物不足が続く中、人々が注目したのが「古着」でした。1950年代の東京には、約7000軒もの古着屋が存在していたそうで、その中で米軍から放出されたジーンズを専門に扱う「マルセル」や「アメリカヤ」などが相次いで誕生しました。

そこに目をつけたのがジーンズ専門商社である栄光商事の創始者、高橋重敏氏。得意の英語を駆使して、米国シアトルにある中古衣料店から大量にジーンズを買い付けたといいます。輸入品は中古だけにとどまらず、1960年にはリー社と契約を結び、リーブランドの新品ジーンズを8万着輸入。ところが輸入した新品ジーンズは、これまでの履きなれた古着とは異なって、未洗いで糊がついているため、ごわごわした肌触り。生地が固くて何とも履き心地が良くないので、新品のジーンズをわざわざドライクリーニングに出して「洗い」加工を施すひと手間を加えたそう。これが今の「洗い」や「中古加工」の原点です。

 

日本初の国産ジーンズ、ついに誕生

bigjohn

東京オリンピックに日本中が湧いた1963年。いよいよ日本でも国産ジーンズを作ろうというムードが高まっていた中、岡山で学生服を作っていたマルオ被服の尾崎小太郎氏は、新たな商品開発を試みていました。尾崎氏は、すでに大石貿易の大石哲夫氏が米国キャントン社から輸入していたデニムをもとに、縫製を請け負うことになったのです。これがまさに、日本でジーンズがうぶ声を上げた瞬間。尾崎社長はその数年後、今度は米国コーンミルズ社からデニム生地を国内で初めて輸入し、高品質なジーンズを国産で作り出すことに成功。こうして誕生したのがビッグジョンのM1002です。

その後、1975年頃まで日本のジーンズメーカーは米国から競うようにデニム生地を輸入していました。そんな中、ものづくりの魂がうずいたのが、綿織物の産地だった岡山や広島。この地では坂本デニム、貝原織布が国産デニム生地の開発に着手。藍染を発展させて、日本独自のデニムを生み出すことに成功しました。こうしてついに、国産のデニム生地で、縫製も国内で行われた最初のジーンズが誕生したのです。

オリジナルが海外のモノでも、より良い品を作り出すのが日本の「お家芸」。それにしても、こんな飽くなき探求の連続があったとは。リーバイスやリーなど本場アメリカのブランドもいいけれど、メイドインジャパンデニムは、まさに日本人らしいスピリットを感じますね。

 

BIG JOHNの商品一覧はこちら